富士と折り紙

父の思い出

父のこと

父は、昭和5年8月14日、京都で生まれた。4人兄妹の三男で、幼い時は腕白だったらしい。祖父の仕事の都合で兵庫県神戸市など数ヶ所で少年時代を過ごし、戦後上京して高校、大学を出て東京都で教員になり、昭和31年に母と結婚。その後、退職まで中学校の国語教師として働いた。母と私と、三歳下の妹との4人家族として目黒区平町から新宿区戸塚一丁目、板橋区上板橋と引っ越しの後、昭和61年から埼玉県和光市に居を定めた。私と妹が結婚してからは、2人で旅行を楽しんだりしていたけれど、父は7年ほど前から間質性肺炎を患い、在宅酸素(酸素のチューブを常時装着)が必要となった。平成28年に母が肺癌で亡くなってからは、妹が父と同居してくれた。妹の住んでいたマンションの周辺を2人で散歩したり、時々外食に出かけたり、という穏やかな日々のうちに90歳を越えた。年相応の物忘れはあったものの、日常生活はほとんど介助なしでできて、妹が手続きしてくれた介護サービスは要介護2、白内障緑内障はあったけれど、耳も歯も、私よりしっかりしているくらいで、羨ましいほどだった。実家に妹と妹の猫とともに戻ったのは4年前。肺の病状は少しずつ進んでいたけれど、時には簡単な調理をしたり、教え子たちの同窓会に呼ばれたり、高校時代の友人が訪ねてくれたりもした。趣味は退職後に始めた実用書道と折り紙とナンプレと甘いものを食べること。宝くじのスクラッチも大好きだった。

そんな日々を過ごしていた令和3年の12月2日、突然妹が倒れた。そして始まった不慣れな私との生活。不安や苛立ちもあったと思う。その中で92歳の誕生日を迎えた。その1週間後に、8ヶ月の入院の末、妹が天に旅立ってしまった。父は、車椅子で葬儀にも参加した。仲のよかった娘に先立たれて、気落ちしていたけれど、多くは語らず、その後も私とまるくんのために頑張ってくれた。

私の主な役目は、父に合わせた3度のご飯を用意することと、お菓子や宝くじやナンプレ雑誌を買ってくることだった。もちろん、薬の管理や、介護サービスや酸素の利用上の連絡などもあったけれども。ようやく、お互いに慣れて、外出はコロナのワクチン接種と、目医者の受診のみ、月に2度の往診サービスと訪問看護を受ける以外は2人で過ごした。肺の病状は進み、トイレやお風呂などの際は、酸素の濃度を6ℓ/分にしても苦しくなるようになり、指につけて測る酸素飽和度が、80代、時には70代になってしまうこともあった。普通なら限界を超えているはずなのに、長い間についた耐性なのか、少し安静にすると回復し、お医者さんも驚くほどだった。本人は、若い頃陸上競技をやっていたせいかも、などと言っていたが、遂に令和4年の12月26日、いつも通り眠って、夜中にトイレに起きたとき、苦しくなったらしく、私は起きていたのに、気づいた時には倒れこんでいた。すぐに救急車を呼んだけれど、翌日の昼、病院で、父は92年の生涯を閉じた。コロナのため、面会できないはずだったが、入院手続きのために病棟に来ていた私は、医師が許可してくれて立ち会うことができた。

思いがけず、父と2人で過ごした日々は、これまでの父の、そして私の人生を見つめ直す時間になった。

怒涛の1年

一昨年の12月2日、夕方の4時過ぎ、携帯が鳴った。父からの電話だった。出ると、妹が倒れ、救急車を呼んだが、まだ意識が戻らないという。慌てて電話を切り、群馬から埼玉の実家に向かった。普段は使わない高速道路を使い、6時過ぎに着いた。父は憔悴した様子で、妹が倒れた時のことを話してくれた。お向かいの家に助けを求め、通報してもらったこと、妹は近くの国立埼玉病院に運ばれたこと。妹の息子2人にも電話して知らせたこと。知らせを聞いて来てくれた妹の次男の嫁に父を頼んで、病院に向かった。

父は数年前から、肺の病気のため在宅酸素を利用していた。6年前に母が亡くなってから、妹が一緒に住んで、訪問サービスも利用しながら介護をしてくれて、父と妹と猫のまるくんとの2人と1匹の平穏な暮らしが続いていた。私は、月に2回ほど、実家に来てはいたけれど、父の世話は全面的に妹に頼っていた。新型コロナが流行り出してからは、妹は感染防止にかなり気を使っていたから、そのストレスがいけなかったのだろうか。そして、駆けつけた病院で言われたのは、妹は不整脈による心肺停止から蘇生はしたものの、意識が戻る可能性は低いということ。実家に戻り、父の食事のこと、薬のこと、1日のスケジュール、利用しているサービスのこと、一つ一つ確認していくと、いかに妹に負担をかけていたか、改めて痛感した。妹の病状も定まらない中、私はそのまま群馬には帰らず、手探りの介護生活が始まった。

ベランダからは、毎日のように、富士山が、冬の冷たい空にくっきりと見えていた。

妹は、コロナ禍で見舞うこともできないまま、8ヶ月の入院の末、8月22日に天国に旅立った。そして、その4ヶ月後の12月27日、父も、92歳で息を引き取った。

2022年は、私にとって、忘れられない年になった。

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