富士と折り紙

父の思い出

父の生い立ち

私の父、修(おさむ)は、四国の宇和島伊達家の末裔で、昭和5年8月14日に京都府中京区で生まれた。本籍は東京都目黒区中根町で、伊達德眞(のりまさ)、百合(ゆり)を両親に、兄、誠(まこと)、保(まもる)、妹、英子(ふさこ)の6人家族。祖父はカネボウの前身である鐘ヶ淵紡績の研究職で、人工繊維(スフ)の開発をしていたという。転勤が多く、軍属でもあった祖父は、口数の少ない、厳しい人で、乗馬や水泳は堪能だったが、父は幼い頃、泳げないのにいきなり背の立たない水の中に入れられて、自力で泳げ、というやりかたで泳ぎ方を覚えさせられたそうだ。父は、腕白でじっとしていられない、小猿のような子だったので、「ちーちゃん」と呼ばれていた。5歳くらいの写真が残っていて、ちゃんとした服を着せられて、撮影する間、動かないように背中には物差しをあてがわれている。小学校は、神戸の元山小学校の他、数校に通い、当時は差別されていた朝鮮人部落の子供たちとも友達になって、一緒にいたずらをしたり、喧嘩をしたり、腕白な子供時代を過ごした。祖母は、歌人吉井勇を兄に持つ伯爵家出身の人だったが、父の友人をを差別することはなかったという。祖父は侯爵家の次男で、長男(父の伯父)は德長(のりなが)といったが、幼い頃、女中が抱いていて取り落とし、頭を打ったために知的障害があると聞かされていて、同じ家の離れに住んでいた。その「ながさま」は、穏やかな、工作や動物を飼うのが好きな人で、父はよく遊んでもらったという。昔の華族は、そういうこともよくあったのではないかと思うが、戸籍上は、祖父の父が亡くなった時、長男が家督を継ぎ、すぐに隠居の届けをだし、次男の祖父が相続している。その後、その人がどうなったか、父からは聞かなかったが、幼い頃のそんな経験が父の人となりに影響があったのではないかと思う。父の思い出話の中にいちばんよく出てくる猫は、その頃飼っていたぷーすけという猫で、生まれつき足か何かに障害があって、もらい手がなく、犬と一緒に飼っていた。人懐っこく、犬とも仲が良くて父は可愛がっていたが、犬がジステンパーになり、それが移って死んでしまった。何十年たっても、その時の悲しみは癒えていないようだった。

中学校は、当時できたばかりの六甲中学で、山の中腹にあり、厳しい校長先生のもと、通学が大変だったそうだ。戦争中は、家の事情で、親戚の家に預けられたことがあり、その時、自分だけご飯を秤で計って少ししか貰えず、トマトやカボチャ、さつまいも冬瓜などばかり食べていたので、嫌いになってしまったとか。高校は獨協高校へ進み、終生の友だちもできた。この頃は、渋谷区中根町の叔父さんの家に住み、独身の叔父さんのご飯を作ったり、ギターを教えてもらったりしていた。そうした生活で、終戦後の混乱もあり、学校の勉強にはあまり身を入れてなかったようだが、唯一、國學院大に入ることができた。大学では、児童文化研究会というサークルに入って、人形劇や紙芝居などを子どもに見せる活動に熱中、4年生の時には部長になり、入ってきた新入部員の1人が母だった。この頃のことは、父の思い出話のハイライトだと言える。

昭和ヒトケタ生まれで、戦争の影響の中で育ち、戦後は祖父母が詐欺にあったり、病気になったり、お金の苦労もあったようだけれど、朗らかでやんちゃな青年になっていった。

一方、母は、東京都の役人で競輪関係の仕事をしていた祖父のもとで4人兄弟の三女として生まれたが、兄と姉1人は幼い時に亡くなり、そのためか、大切に過保護に育てられた。祖父は、運転手付きの黒い車を使っていて、裕福だったけれど、先祖はキリシタンバテレン辻又兵衛、と母は言っていたが、要は山梨県の元平民だったので、父の両親には結婚を許してもらえなかった。結婚式は明治神宮で挙げたが、父方の祖父母は出席せず、代わりに当時の伊達家の当主の宗明叔父さん夫妻が出席してくれたという。私が生まれて、何となく和解したらしいけれど、後年もずっと蟠りはあったようだ。と言っても、父の兄弟で見合い結婚だったのは、叔母1人だけだったし、兄弟の仲はよかった。母の実家には何かと援助してもらったり、父はよく祖父の囲碁の相手をしたりして、良き婿ではあったと思う。