富士と折り紙

父の思い出

感謝

父は、生前、身内の誰かにこの家に住んでもらえたらいいなぁ、と言っていた。近くに住んでいる二人の甥にたずねると、両方ともその気はないという。このまま残しておいても、いつかは手放すことになる。それならば、私の手で、と考えて、実家じまいをすることを決断した。たくさんの思い出と、たくさんの荷物!一人でやらなくてはならないと思うと、不安や戸惑いはあった。それでも、月に2、3回群馬から通って、少しずつ片付けた。大きなものは業者に頼んで処分したけれど、どうしても思い切れないものも多くて、群馬の自宅に運んだ。母のお気に入りだった岩谷洞の箪笥は、大きくて、絶対無理だと思ったのに、何とか家を片付けて、引っ越し業者に頼んで家に運び込んだ。妹のベッドは、分解して自分で運び、自分のベッドを捨てて入れ替えた。調度品や食器、本や、たくさんの折り紙など、自宅は大量の荷物でいっぱいになった。

1人で泊まりがけで片付けていると、家中に父や母、妹との思い出が詰まっていて、なかなか捗らないこともあったけれども、片付けを進めながら実家のみんなと別れる準備をしていたように思う。

私が実家通いで留守にしている間、猫の世話やら家のことをやってくれた家族は、増える荷物に頭を抱えながらも、受け入れてくれたことを、感謝している。

ようやく目処がつき、不動産屋を決めて、しばらくしてマンションの売却が決まった。遂に、何もなくなった部屋は、明るくがらんとして、思っていたより広かった。

マンションの引き渡しが近づいた4月上旬、最後に泊まった日、朝、目が覚めると、ベランダからは、真っ白な雪を被った富士山が見えた。暖かくなると空が霞んで、見えないことが多い富士山を、最後に、見ることができて、胸がいっぱいになった。こうやって、一つの家族の歴史が終わるのだと思った。

部屋を出て、ポストに鍵を入れて、私は、よく歩いた散歩のコースを一周し、何度となく買い物をしたスーパーで買い物をして、群馬に向かった。

片付けの得意でない私だけど、ちゃんと家とお別れできたこと、父に報告して、感謝の気持ちを伝えたい。

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折り紙

父が折り紙を本格的に始めたのは、20年くらい前、母との海外旅行がきっかけだった。もともと手先が器用で、いろいろな箱を作ったり、簡単な木工をしたりしていたけれど、折り紙は、紙さえあればどこでもできて、大人でも、子供でも、外国でも喜んでもらえるのがいいと言って、よく折るようになった。

得意なのは、カブトムシとかクワガタムシ、干支の動物、コスモスや朝顔、キキョウなどの花、お雛さまやサンタクロースなどで、米粒くらいの大きさに折った動物や、実物大の昆虫などは、なかなか見応えのある作品だった。飾るための台や箱も手作りし、使う紙を選んだり、出来上がりのバランスを決める時は母に相談したり、一緒にお店に足を運んだりして、2人で楽しんでいた。作品は、季節ごとに、お世話になっているケアマネジャーや薬局にあげて、それぞれの包括センターやお店には父の折り紙コーナーができたりした。

私も父の影響で折り紙に興味を持ち、毎年東京で開かれる折り紙コンベンションに一緒に参加したこともあった。父は、作品を折るだけでなく、工夫した折り図もたくさん作った。折り紙というのは、実際に折りながら教わるとわかりやすいが、本の折り図ではさっぱりわからないことが多く、そういう時のために、小さい折り紙で折り方の途中をひとつひとつ作って貼ったオリジナルの折り図を作ってくれた。これだと、コピーしても印影が出て折り方が分かりやすくて、人にあげても評判がよかった。

新型コロナが流行りだしてからは、外出することもなくなり、人に会う機会も減って、折り紙にも気が向かないようになっていた。それでも、私が一緒に暮らすようになって、ショートステイを利用してもらうようになり、ステイ先の施設のスタッフの方や利用者さんに作品をあげるようになった。これが張り合いになって、また熱心に折り紙をするようになった。私も一緒に折り図を探したり、折ってみたりして、楽しいひとときを過ごした。そんな時、父は、よく、「折り紙をしていてよかったな。」と言っていた。父の日のプレゼントに、父の折り紙作品の写真をまとめて製本してプレゼントした。「こんなの折ったんだっけ?」と言いながら、とても喜んでくれた。もっともっと、作品集を作ってあげたかったと今になって思う。

父が亡くなった後、ショートステイでお世話になった介護施設に、父が使わなかったおりがみをダンボール一箱持っていった。それでもまだたくさんのおりがみや折り図の本が残っていた。本を図書館に寄付しようと思ったが、発行後3年以上経った本は受け付けないとのことで、諦めた。捨ててしまうのは忍びなくて、私は一念発起して、折り紙講師の資格を取った。父のおりがみで、地元の街におりがみサロンを作りたいと思ったのだ。そこで父のおりがみをみんなに楽しく使ってもらう。いつかそんな夢を叶えたいと思っている。

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実家での暮らし

実家は埼玉県和光市にある。私が結婚して、家を出た後、父と母は、それまで住んでいた板橋区内の家から、和光市のマンションに引っ越してきた。当時、東武東上線和光市駅の駅前は広々とした空き地に、イトーヨーカドーばかりが目立つ、鄙びた所だった。それが今では、地下鉄が乗り入れ、私鉄とも連絡して、横浜や渋谷まで一本で行ける、便利な始発駅になり、駅のまわりは賑やかになった。高速道路も近く、外環まで10分もかからない。近隣にホンダや理化学研究所司法研修所自衛隊駐屯地もあり、市の人口は増え続け、若い人の多い街である。

実家は大規模マンションの7階で、ベランダからは天気が良ければ富士山がよく見える。それが両親がこの家を選んだ理由の一つでもあり、父も母も妹も、その景色が気に入っていた。妹の携帯には、ベランダから撮った富士山の写真が何枚も残っていたし、父と私も、日々、「今日はよく見えるよ」などと話題にしていた。富士山が見えると、なぜかいいことがありそうな気がしたりした。

マンションの敷地内には、ケヤキモミジバフウクスノキイチョウなど、公園にあるような大きな樹木がたくさん植えられ、人工の流れもあって、夏は水遊びができる。敷地内にはテニスコートや集会棟、スーパーや図書館もある。私は、実家とは言っても、住んだことはなく、長男、次男の出産の時にしばらく滞在したくらいで、この地域のことはほとんど知らなかった。妹が倒れ、言わば緊急事態の中、この地で暮らしてみて、あらためて、住みやすさを感じることが多く、気持ちの上でずいぶん助けられたと思う。

思いがけず始まった父との2人暮らしも、一年を越え、その間に妹が亡くなり、父は92歳になった。考えてみると、今まで、父と2人きりでこんなに長く過ごしたことはなかった。父の病気は、少しずつ進行して、在宅酸素の濃度は上がっていった。お風呂もトイレも介助なしでできたけれど、苦しくなることが増え、妹のことやコロナ禍も重なって、鬱状態を訴えるようにもなった。そんな日々でも、それまでの習慣を守り、気が向けば好きなことをして、私とも他愛ない冗談を言い合ったりして、自宅でゆったりと過ごすことができたのは、本当にありがたかった。ケアマネジャーや、訪問診療や、酸素の会社や、お向かいのお宅の方にも、お世話になった。でも、何より、父が頑張ったと思う。

最初は1人で留守番するのを不安がっていたけれど、私は毎日、夕方には買い物を兼ねて散歩に出た。1人になってただ歩く時間がほしかったのだ。父は、夕暮れ時は心細くなることが多かったのに、私が散歩から戻ると、明るい声で「おかえり〜」と声をかけてくれた。妹や私のことや、親戚や、周りの人をいつも気遣ってくれたし、耳も歯も、滑舌も私よりよっぽど良くて、足腰も年の割にはしっかりしていた。

そんな父との生活の中の、ちょっとしたことを、繰り返し思い出す。

よく一緒にテレビを見た。テレビは、65型という大きなもので、2年前の年末に急にテレビが壊れて、急遽、町の電気屋さんに問い合わせたらこれしかないと言われて購入したという。父は少し視力が落ちてきたので、大きい画面でよかったと言っていた。その大きなテレビでよく見たのは、『坂上動物王国』、日曜日の昼間の『お宝鑑定団』、相葉くんの『みんなの動物園』、高田純次の『じゅん散歩』、火野正平の『こころ旅』など。でも、高田純次はお気に召さないようだったが。NHKの『いいいじゅー』は、見るたびにロゴが「いいじいじ」に見えると言いながら見た。あとはとにかくスポーツ中継、特に陸上競技、バドミントン、卓球、体操、水泳など、自分も経験のあるものは特に熱心に見た。冬のオリンピックも、なんだかんだ言いながらほとんど見た。スポーツ好きの人らしく、父は思いの外、負けず嫌いなのだった。

父は若い頃はギターを弾いたり、ハーモニカを吹いたり、歌もよく歌っていたらしい。私が子供の頃、日曜日のミッチ・ミラー楽団の『ミッチと歌おう』という番組をよく一緒に見たし、映画ではミュージカルが好きで、『アニーよ、銃をとれ』とか、『チキチキバンバン』、『マイフェアレディ』など、一緒に見た記憶がある。歌手は、笠置シヅ子がお気に入りだったので、今度NHKで始まるドラマ『ブギウギ』など、もし見られたら、楽しんで見ただろうと思う。

和光の家の重要な住人?、黒猫のまるくんを忘れてはならない。妹が溺愛していたので、父は、「まるくんは、ママの3男坊だからね。」といつも言って聞かせていた。そう言う父も、まるくんが可愛くてならず、おしっこやうんちをしたと言っては褒め、知らんふりされてもじゃらしたり、まるくんがダイエット中なのに、こっそりキャットフードのおやつをあげたりしていた。私は見て見ぬふりをしていたけれど、父がいなくなった後、片付けていると、あちこちから隠してあったまるくんのおやつが出てきて、思わず「じいじ〜!」と言ってしまった。

父は、よく「この家はどうなるのかな。誰か住んでくれたらいいな。」と口にしていた。私は群馬に家があり、家族もいる。父と妹が実家に住んで、妹がひとりになったら、妹が家を継ぎ、時々行ったり来たりして過ごす予定だったのに、叶わないことになった。妹の息子たちに聞いてみても、ここに住む気はないという。どうしたらいいのか、私が決めることになるとは、思いもしなかったけれど、最後に残った者としての責任を果たさなければならないと思う。

まずは、もう会えなくなって、相談もできなくなった家族の残したたくさんのものを、私一人で片付けなければならない、ということになった。

家族として

母は、家事が得意ではなく、その上あまり丈夫でなかったからか、子煩悩でマメな父は、家事、育児は厭わずやっていた。特に料理は、マッチで火をつけるところから、ご飯の炊き方、ジャガイモの剥き方まで、父が母に教えたそうだ。父の得意料理はいくつかあって、気取った手の込んだものではないけれど、こんがり焼いた鶏の手羽肉のソテー、強火で炒めた炒飯や焼きそばなど、焼き物が上手で、よく作ってくれた。また、母はおにぎりが苦手で、どうしても俵形になってしまうので、私がおにぎりは三角がいいと言ったので、遠足や運動会のおにぎりは、いつも父が握ってくれた。そのためか、大人になって、子供の遠足や運動会では、私のおにぎりが普通より大きいとママ友に指摘されたことがある。

私たちが結婚して家を出て、母とふたりになってからは、しばらくはあちこちへ旅行したりしていたけれど、母が膠原病で闘病生活をするようになると、老々介護となり、料理は父が全てやっていた。母は好き嫌いが多かったので、苦労していたようだけれど…

私たちが子供の頃、裕福とは言えない暮らしの中で、休みにはよく家族で旅行した。親戚のいる山梨や千葉の内房を拠点に、八ヶ岳霧ヶ峰清里、蓼科、館山などへは区立の保養所や公営の宿泊施設を使って、また本栖湖とか、富士山周辺、西沢渓谷、須坂温泉、白駒池などにも連れて行ってもらった。1972年のジャコビニ流星群の時には、10月9日に学校を休んで、裏磐梯の浄土平の先の、林野庁の宿泊施設に泊まることにして、流れ星を見に行った。午後遅く駅に着いた時は、もう浄土平行きのバスが終わってしまっていて、タクシーで行こうとしたら、タクシーの運転手さんが一家心中と間違えたのか、何もなくて真っ暗だから行かない方がいいと諭された。宿があって、予約も取ってあると説明してやっと行ってもらった。その夜、流星はひとつも見えなかったけど、翌日見た五色沼の紅葉の美しかったこと!そんなふうに、我が家の家族旅行は、大抵は鈍行電車やバスと歩きの、質素な、でも一つ一つに思い出のある旅行だった。贅沢ではないけれど、両親が見せてくれたとびきりの景色は、今でも鮮やかに心に残っている。

小さい頃住んでいた早稲田の面影橋住宅は、池や原っぱがあり、大きな公園にも隣接していて、新宿区にしては自然が豊かで、いろいろな虫がいた。父は子供の頃から虫好きだったと言って、私にも、いろんな虫のことを教えてくれた。そして、アゲハチョウを卵から育てたり、アリジゴクを見つけたり、テントウムシの幼虫を飼ったり、カブトムシの幼虫を探しに行ったりと、すっかり虫が好きになった私は、当時豊島園にあった昆虫館の会員になって、父に何度も連れて行ってもらった。母と妹は大の虫嫌いだったけれども。

また、手先が器用だった父は、大学時代、人形劇のために作っていた指人形の作り方も教えてくれた。古ハガキで作った筒を芯にして、新聞紙を丸めて貼り付け、その上に小さくちぎった半紙を貼って顔を作っていく。色を塗って、顔を描いて、布で簡単な服を着せたら出来上がり。名前はデコ坊だった。父は、操るのも上手で、ひとたび指にはめると、指人形は、まるで生きているようにおしゃべりしたり、ふざけたりして、とても楽しかった。人形やもの作りが好きな私の原点だと思う。

勉強もよく教えてくれた。小学3年生くらいの頃、算数が苦手だった私に、毎日、問題のプリントを作ってくれて、私が問題をやっておくと、夜の間に採点して、翌朝までに次の問題を作っておいてくれる、というのを、学校の仕事の傍ら、ずっと続けてくれた。お正月には書き初めの宿題、夏休みには理科の自由研究にも根気強く付き合ってくれた。手伝ってくれるのではなく、そばで励まして、できたら誉めてくれた。夏休み中には、勤務していた学校のプールに入らせてくれたり、体育館でバドミントンをやったりしたのも楽しかった。父が生徒に作ってあげていた、日本の近代詩のプリントの余りをもらったりもした。今でも愛誦しているいろいろな詩に出会ったのはそのプリントだった。

母に対しても、寛容で、やりたいことはやらせていた。手作りの人形教室に通ったり、道祖神や仏像を見るために一人旅に出かけたり、当時は気づかなかったが、同じ主婦として、私にはできないようなことを、母はしていたなぁと、今、思う。

妹に対しても、同じようにしていた。

母も、妹も、私も、みんな父の懐で、ずっと守ってもらっていたのだ。

私が赤ん坊の頃、父が丹前の中に私を入れて抱いている写真がある。ずっとあんなふうにしてもらっていたんだなぁ。

あなたの子供でよかったです。

教師として

大学時代、何より打ち込んだ児童文化研究会の影響もあってか、父は教員を目指した。教育実習は世田谷区立八幡中学校。教科の国語もさることながら、自習や学活の時間に児研の経験を生かして、生徒に人気を博したらしい。生来の、子供好きであった。当時、八幡中学校の校長先生は、詩人八木重吉の孫という方で、吉井勇の甥という父にシンパシーを感じて下さったのか、実習が終わる時には、採用を推薦の上、八幡中学校に赴任してほしいと言って下さったそうだ。こうして、八幡中学校で父の教員人生が始まった。国語の素養にはあまり自信のなかった父だが、学校や生徒さんたちに恵まれて、本当に慕われて、いきなり3年生の担任を任されたりして、充実した数年を過ごしたようだ。世田谷という土地柄もあったかもしれない。

次の豊島区立池袋中学校は、打って変わって、繁華街に近く、一学年16クラスというマンモス校で、生徒も先生も今では考えられないようなバンカラの校風に、相当面食らい、鍛えられたようだ。いろいろな生徒さんやその家庭とも遭遇し、若さに任せてぶつかって、印象深い出来事も多かった。家出した子を探しに行ったり、父子家庭の子から、夜遅くに「お父さんが死んでる」と連絡を受けて駆けつけたり、今で言うモンスターペアレントから夜昼構わず電話がかかってきて、黒電話を布団にくるんでも家族みんな夜中まで寝られなかったり、教室に迷い込んできたカナリアを、クラスで飼ったり。そのカナリアは、卒業後は我が家に迎えて、ピーコと名付け、私が7年間お世話係をした。

勧められて教育相談を勉強し始めたのもこの頃だった。教育相談の経験を積んで、異動したのは、文京区立茗台中学校。更に第九中学校へ。管理職にはならず、担任ばかり。そして、定年を迎え、文林中学校で嘱託として数年勤め、退職した。教科の他に、部活ではバドミントン、演劇などを担当し、一生懸命指導していた。職員室とは別の教科準備室があって、生徒たちからイタチ小屋と呼ばれて、みんなの溜まり場になっていたりして、いつも楽しそうに仕事をしていたと思う。

昔はワープロなどなく、夜、いつもガリ版カリカリと試験問題やプリントを作っている音がしていた。土日は毎週のように部活の練習や試合で出かけ、母がよく呆れていたものだ。

退職後は、度々同窓会やクラス会に呼んでいただいた。80代後半まで、初任校の八幡中学の卒業生の70代後半の方が車で家まで迎えに来て下さったりして、皆さんに会って、昔の話をするのをとても楽しみにしていた。父も病気になり、新型コロナが流行り出したりして、近年はその楽しみを諦めなくてはならなくなったのが残念そうだった。

年末に父が亡くなって、正月には例年のようにたくさんの年賀状をいただいた。折り返し欠礼のハガキを出したら、更にお悔やみのお手紙や、香典を送って下さった方も多く、卒業から数十年を経ても、皆さんが慕ってくださることがありがたく、心に沁みて、さっそく、仏前に供えて、父に報告した。

たくさんの生徒さんや、同僚の先生たちとの出会いは、父の大切な糧となった。父はよく「生まれ変わっても、中学校の先生になりたいな」と言っていた。そんな天職に巡り会えた父は、ほんとうに幸せだったと思う。

 

父の生い立ち

私の父、修(おさむ)は、昭和5年8月14日に京都府中京区で生まれた。本籍は東京都目黒区中根町で、伊達德眞(のりまさ)、百合(ゆり)を両親に、兄、誠(まこと)、保(まもる)、妹、英子(ふさこ)の6人家族。四国の宇和島伊達家にゆかりのある侯爵家だった。私の祖父德真は、カネボウの前身である鐘ヶ淵紡績の研究職で、人工繊維(スフ)の開発をしていたという。転勤が多く、軍属でもあった祖父は、乗馬や水泳は堪能だったが、口数の少ない、厳しい人で、父は幼い頃、泳げないのにいきなり背の立たない水の中に投げ入れて、自力で泳げ、というやりかたで泳ぎ方を覚えさせられたという。父は、活発でじっとしていられない、小猿のような子で、「ちーちゃん」と呼ばれていた。5歳くらいの写真が残っていて、よそゆきの服を着せられて、撮影する間、動かないように背中には物差しを入れられていたそうだ。小学校は、神戸の元山小学校の他、数校に通い、当時は差別されていた朝鮮人部落の子供たちとも友達になって、一緒にいたずらをしたり、喧嘩をしたり、腕白な子供時代を過ごした。祖母百合は、歌人吉井勇を兄に持つ伯爵家出身の人だったが、父の友人をを差別することはなかったという。

祖父はもともとは侯爵家の次男だった。長男(祖父の兄)は德長(のりなが)といったが、幼い頃、女中が抱いていて取り落とし、頭を打ったせいで知的障害があったと言われていて、家督を継がず、同じ家の離れに住んでいた。その「ながさま」は、穏やかな、工作や動物を飼うのが好きな人で、父はよく遊んでもらったという。幼い頃のそんな経験が父の人となりに影響があったのではないかと思う。父の思い出話の中によく出てくる猫は、ながさまが飼っていたぷーすけという猫で、生まれつき足に障害があって、もらい手がなくて、犬と一緒に飼われていた。人懐っこく、犬とも仲が良くて、父は可愛がっていたが、犬がジステンパーになり、それがうつって死んでしまった。何十年たっても、その時の悲しみは癒えていないようだった。

成長して、当時できたばかりの六甲中学に入学したが、学校が六甲山の中腹にあって、厳しい校長先生のもと、朝は駆け足で通学しないといけなくて大変だったそうだ。戦争中は、学徒動員を経験した。敗戦後には、旧華族は経済的に苦境に落ち入り、両親が詐欺にあったり、病気になったりして、親戚の家に預けられたこともあった。その時、自分だけご飯を少ししか貰えず、トマトやカボチャ、さつまいもや冬瓜などばかり食べていたので、そういう野菜が嫌いになってしまったと言っていた。

その後、東京の獨協高校に入学して、陸上競技や体操に励み、終生の友だちもできた。渋谷区中根町の規(ただす)叔父さんの家に下宿させてもらい、独身の叔父さんのご飯を作ったり、ギターを教えてもらったりしていたそうだ。終戦後の混乱の中、通学のバス代にも事欠く生活の中で、学校の勉強にはあまり身を入れてなかったようだが、大学は、何とか、國學院大学に入ることができた。そして、児童文化研究会というサークルに入って、人形劇や紙芝居などを子どもに見せる活動に熱中した。まだ娯楽の少なかった当時、地方へ毎年巡業したりして、歓待してもらったという。4年生の時には部長になり、入ってきた新入部員の1人が母だった。やがて交際するようになって、結婚に至る、この頃のことは、いつも父の思い出話のハイライトだった。

母は、東京都の役人で競輪関係の仕事をしていた祖父のもとに、4人兄弟の末っ子として生まれた。兄と姉一人が幼くして亡くなったため、大変過保護に育てられ、家事は何もできず、当時のガスコンロに、マッチで火をつけることもできないし、ジャガイモの皮をむくこともできなかったという。祖父は、伊東さんという運転手付きの黒い車に乗っていて、経済的には余裕があったが、先祖はキリシタンバテレン辻又兵衛、と母は言っていたが、普通の家柄の出身だったので、父の両親には結婚を認めてもらえなかった。昭和31年6月27日に、明治神宮で挙げた結婚式には、父の両親は出席せず、代わりに当時の宇和島伊達家の当主だった宗彰叔父さん夫妻が親代わりで出席してくれたという。祖父母とは、結婚後は和解したものの、蟠りはあったようだ。と言っても、父の兄弟で、家格の釣り合う見合い結婚をしたのは、叔母1人だけだったし、華族とか家格とかがもはや無意味になったことを、祖父母も受け入れざるを得なかったろうと思う。私には、穏やかな祖父母の記憶しかない。

一方、母の実家とは行き来が多く、何かと援助をしてもらっていた。父はよく祖父の囲碁の相手をしたりして、良き婿であったと思う。

父は、幼少の頃には、女中やねえやがいた境遇から、戦争を経て、苦労して社会人となり、結婚してからは、母の実家とも円満で、家事や育児も率先してやるイクメンの走りとも言える父親となっていったのだった。

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実家のベランダで、咲いたクチナシの花。父と母の結婚式の時のブーケはクチナシだったという。

 

 

みんなの好きなもの

父は12月27日、母は2月24日、妹は8月22日が祥月命日なので、月命日は月の後半に続けてやってくる。それぞれの好物や得意料理を食卓にのせることにしている。父の好物は鰻、ステーキ、お多福豆の煮たものなど。濃い目に味付けした青魚や、肉料理もよく食べた。おつまみとしては、数の子カラスミがご馳走で、普段はもずくの酢の物や、アオヤギのぬたなどの和え物も好きだった。春先のふきのとうの味噌和えは、刻んだ生のふきのとうを、味噌とハチミツで和えたもので、父が自らよく作り、私にも作り方を教えてくれた。お酒は日本酒。剣菱とか。もっとも、高齢になってからは、お酒は飲まなくなって、もっぱら甘党になった。朝ごはんにはいちごのジャムパンやアップルデニッシュやあんぱんと、バナナとりんごとにんじんのスムージーと、カップヨーグルトが定番だった。

母の好物は、淡白で薄味のおでんや豆腐、季節の果物などだったけれど、なぜか妹の作ったスペアリブの煮たものは好きで、亡くなる直前にも妹が病院に持っていっていた。そして、妹の好きなものは、歯応えのあるものや熱々のもの、貝類、特にトリ貝とかアワビとかのお刺身、ホヤの酢の物、豚のナンコツの煮物などで、キャラブキとウィンナーも好きだった。妹は料理が上手で、得意だったのはナポリタン、ミネストローネ、巻き寿司、いろんな煮物。お弁当の定番ののり弁とか、松花堂弁当とかは、入れ物からメインはもちろん、付け合せまでお弁当屋さんそっくりに、父と2人分を作って、昼ご飯に食べたりしていた。料理には極力手をかけない私には考えられない労力だと思うのに、妹は楽しんでやっていた。私も、時々ナポリタンとがミネストローネは作ってみるけれど、妹の味には近づけない。

おやつなら、父はチョコレートの『メルティキッス』や『神戸ショコラ』、ビスケットのアソートとか、アイスクリーム、草餅、大福なども好んで食べた。母は、ドライマンゴーとか干し杏、ドライフルーツたっぷりのフルーツケーキなどが好きだった。妹は辛党で、間食はあまりしなかったが、おつまみでは、ホタテ貝ひもとか、QBBチーズ鉄分入りをよく食べていた。という訳で、実家の祭壇にはいつもこういったお菓子やおつまみが並んでいる。

スーパーやお店で、いつも、父や母や妹の好きなものを探すのが習慣になってしまい、見つけると買いたくなる。もっともっと買ってあげたかった。今ごろ、みんな何でも好きなだけ食べているのだろうとは思うのだけれど。

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妹の月命日、妹の好きだった鯖のバッテラ寿司を並べた食卓。