富士と折り紙

父の思い出

折り紙

父が折り紙を本格的に始めたのは、20年くらい前、母との海外旅行がきっかけだった。もともと手先が器用で、いろいろな箱を作ったり、簡単な木工をしたりしていたけれど、折り紙は、紙さえあればどこでもできて、大人でも、子供でも、外国でも喜んでもらえるのがいいと言って、よく折るようになった。

得意なのは、カブトムシとかクワガタムシ、干支の動物、コスモスや朝顔、キキョウなどの花、お雛さまやサンタクロースなどで、米粒くらいの大きさに折った動物や、実物大の昆虫などは、なかなか見応えのある作品だった。飾るための台や箱も手作りし、使う紙を選んだり、出来上がりのバランスを決める時は母に相談したり、一緒にお店に足を運んだりして、2人で楽しんでいた。作品は、季節ごとに、お世話になっているケアマネジャーや薬局にあげて、それぞれの包括センターやお店には父の折り紙コーナーができたりした。

私も父の影響で折り紙に興味を持ち、毎年東京で開かれる折り紙コンベンションに一緒に参加したこともあった。父は、作品を折るだけでなく、工夫した折り図もたくさん作った。折り紙というのは、実際に折りながら教わるとわかりやすいが、本の折り図ではさっぱりわからないことが多く、そういう時のために、小さい折り紙で折り方の途中をひとつひとつ作って貼ったオリジナルの折り図を作ってくれた。これだと、コピーしても印影が出て折り方が分かりやすくて、人にあげても評判がよかった。

新型コロナが流行りだしてからは、外出することもなくなり、人に会う機会も減って、折り紙にも気が向かないようになっていた。それでも、私が一緒に暮らすようになって、ショートステイを利用してもらうようになり、ステイ先の施設のスタッフの方や利用者さんに作品をあげるようになった。これが張り合いになって、また熱心に折り紙をするようになった。私も一緒に折り図を探したり、折ってみたりして、楽しいひとときを過ごした。そんな時、父は、よく、「折り紙をしていてよかったな。」と言っていた。父の日のプレゼントに、父の折り紙作品の写真をまとめて製本してプレゼントした。「こんなの折ったんだっけ?」と言いながら、とても喜んでくれた。もっともっと、作品集を作ってあげたかったと今になって思う。父の遺したたくさんの折り紙や折り図、私が大切に活用したいと思っている。

和光の家

実家は埼玉県和光市にある。私が結婚して、家を出た後、父と母は、それまで住んでいた板橋区内の家から、36年前に引っ越してきた。当時、東武東上線和光市の駅前は広々とした空き地に、イトーヨーカドーばかりが目立つ、鄙びた所だった。それが今では、地下鉄が乗り入れ、私鉄とも連絡して、横浜や渋谷まで一本で行ける、便利な始発駅になり、駅のまわりは賑やかになった。高速道路も近く、外環まで10分もかからない。ホンダに理化学研究所司法研修所自衛隊駐屯地もあり、市の人口は増え続け、若い人の多い街である。

実家は大規模なマンションの7階で、ベランダからは天気が良ければ富士山がよく見える。それがこの家を選んだ一つの理由でもあり、父も母も妹も、その景色が気に入っていた。妹の携帯には、ベランダから撮った富士山の写真が何枚も残っていたし、父と私も、日々、「今日はよく見えるよ」などと話題にしていた。富士山が見えると、なぜかいいことがありそうな気がしたりした。

マンションの敷地内には、ケヤキモミジバフウクスノキイチョウなど、公園にあるような大きな樹木がたくさん植えられ、人工の流れもあって、夏は水遊びができる。テニスコートや集会棟、スーパーと図書館もある。私は、実家とは言っても、住んだことはなく、長男、次男の出産の時に帰って来たくらいだったけれど、あらためて、この家の住みやすさを感じることが多かった。

思いがけず始まった父との2人暮らしも、一年を過ぎ、その間に妹が亡くなり、父は92歳になった。考えてみると、今まで、父と2人きりでこんなに長く過ごしたことはなかった。父の病気は、少しずつ進行して、在宅酸素の濃度は上がっていった。お風呂もトイレも介助なしでできたけれど、苦しくなることが増え、妹のことやコロナ禍も重なって、鬱状態を訴えるようにもなった。そんな日々でも、それまでの習慣や、好きなことをして、他愛ない冗談を言い合ったりして、自宅でゆったりと過ごすことができたのは、本当にありがたかった。ケアマネジャーや、訪問診療や、酸素の会社や、お向かいのお宅の方にも、お世話になった。でも、何より、父が頑張ったと思う。

最初は留守番を不安がっていたけれど、私は毎日、夕方は買い物を兼ねて散歩に出た。1人になってただ歩く時間がほしかったのだ。父は、夕暮れ時は心細くなったりすることが多いのに、私が散歩から戻ると、明るい声で「おかえり〜」と声をかけてくれた。妹や私のことや、親戚や、周りの人をいつも気遣ってくれたし、耳も歯も、滑舌も私よりよっぽど良くて、足腰もしっかりしていた。娘の私が言うのもおかしいけれど、父はもしかしたらとても徳の高い魂を持っている人だったのではないかしら、と思ったりする。

そんな父との生活の中の、ちょっとしたことを、繰り返し思い出す。

よく一緒にテレビを見た。父が好きだったのは、『坂上動物王国』、日曜日の昼間の『お宝鑑定団』、相葉くんの『みんなの動物園』、時間的によく観ていたのは、高田純次の『じゅん散歩』、火野正平の『こころ旅』など。でも、高田純次はお気に召さず、さかなくんも好きじゃないと言う。NHKの『いいいじゅー』は、見るたびにロゴが「いいじいじ」に見えると言いながら見た。あとはとにかくスポーツ中継、特に陸上競技、バドミントン、卓球、体操、水泳など、自分も経験のあるものは熱心に見た。冬のオリンピックも、なんだかんだ言いながらほとんど見た。スポーツ好きの人らしく、父は思いの外、負けず嫌いなのだった。

父は若い頃はギターを弾いたり、ハーモニカを吹いたり、歌もよく歌っていたらしい。私が子供の頃、日曜日のミッチ・ミラー楽団の『ミッチと歌おう』という番組をよく見たし、映画もミュージカルが好きで、『アニーよ、銃をとれ』とか、『チキチキバンバン』、『マイフェアレディ』など、一緒に見た記憶がある。歌手は、笠置シヅ子がお気に入りだったので、今度NHKで始まるドラマ『ブギウギ』など、もし見られたら、楽しんで見ただろうと思う。

和光のテレビは、65型という大きさで、初めて見た時はあまり大きいので驚いたけれど、いつの間にか慣れた。2年前の年末、急にテレビが壊れて、街の電気屋さんに問い合わせたら、これしかなかったとかで、22万円もしたという。父は少し前に緑内障と診断されて、視野が少し欠けるようになり、テレビが大きくてよかったと言っていた。

和光の家の重要な住人?、黒猫のまるくんを忘れてはならない。妹が溺愛していたので、父は、「まるくんは、ママの3男坊だからね。」といつも言って聞かせていた。そう言う父も、まるくんが可愛くてならず、おしっこやうんちをしたと言っては褒め、知らんふりされてもじゃらしたり、まるくんがダイエット中なのに、こっそりキャットフードのおやつをあげたりしていた。私は見て見ぬふりをしていたけれど、父がいなくなった後、片付けていると、あちこちから隠してあったまるくんのおやつが出てきて、思わず「じいじ〜」と言ってしまった。

家族として

母は結婚するまで家事をしたことがなく、その上あまり丈夫でなかったからか、子煩悩でマメな父は、今で言うイクメンで、家事、育児は厭わずやっていた。特に料理は、家族と離れて叔父のところに居候していた経験があったからか、マッチで火をつけるところから、ご飯の炊き方、ジャガイモの剥き方まで、父が母に教えたという。父の得意料理がいくつかあって、気取った手の込んだものではないけれど、鶏の手羽肉のソテー、炒めご飯、焼きそばなど、焼き物が上手で、よく作ってくれた。また、母はおにぎりが苦手で、俵形になってしまうので、私が三角がいいと言ったら、遠足や運動会のおにぎりは、いつも父が握ってくれた。そのためか、大人になって、私のおにぎりが普通より大きいとママ友に指摘されたことがある。私たちが家を出て、母とふたりになって、母が膠原病で闘病生活をするようになると、老々介護となり、料理は父が全てやっていた。母は好き嫌いが多かったので、苦労していたようだけれど…

旅行にもよく連れて行ってくれた。親戚のいる山梨や千葉の内房を拠点に、八ヶ岳霧ヶ峰清里、蓼科、館山などへは区立の保養所や公営の宿泊施設を使って、また本栖湖とか、富士山周辺、西沢渓谷、須坂温泉、白駒池、1972年のジャコビニ流星群の時には、10月9日に学校を休んで裏磐梯の浄土平の先の、林野庁の宿泊施設に泊まることにして星を見に行った。駅に着いたらもうバスがなかったので、タクシーで行こうとしたら、タクシーの運転手さんが一家心中と間違えたのか、何もなくて真っ暗だから行かない方がいいと諭され、宿があって予約も取ってあると説明してやっと行ってもらった。その夜、流星はひとつも見えなかったけど、翌日見た五色沼の紅葉の美しかったこと!そんなふうに、我が家の家族旅行は、いつも鈍行電車やバスと歩きの、質素な、でも一つ一つに思い出のある旅行だった。贅沢ではないけれど、両親が見せてくれたとびきりの景色は、今でも鮮やかに心に残っている。

小さい頃住んでいた早稲田の面影橋住宅は、池や原っぱがあり、大きな公園も隣接していて、新宿区にしては自然が豊かで、いろいろな虫がいた。父は子供の頃から生き物が好きだったので、私にも、虫のことを教えてくれた。アゲハチョウを卵から育てたり、アリジゴクを見つけたり、テントウムシの幼虫を飼ったり、カブトムシの幼虫を探しに行ったり、虫が好きになった私は、当時豊島園にあった昆虫館の会員になって、何度も連れて行ってもらった。母と妹は大の虫嫌いだったけれども。

手先が器用だった父は、大学時代に作っていた指人形の作り方も教えてくれた。ハガキで作った筒を芯にして、新聞紙を丸めて、その上に小さくちぎった半紙を貼って顔を作っていく。色を塗って、顔を描いて、布で簡単な服を着せたら出来上がり。名前はデコ坊だった。操るのも上手で、ひとたび父が指にはめると、まるで生きているようにおしゃべりして、ふざけたりする。とても楽しかった。人形やもの作りが好きな私の原点だと思う。

勉強もよく教えてくれた。小学3年生くらいの頃、算数が苦手だった私に、毎日、問題のプリントを作ってくれて、私が問題をやっておくと、夜の間に採点して、翌朝までに次の問題を作っておいてくれる、というのをずっと続けていた。お正月には書き初めの宿題、夏休みには理科の自由研究に根気強く付き合ってくれた。手伝ってくれるのではなく、そばで励まして、できたら誉めてくれた。夏休み中に、勤務していた学校のプールに入らせてくれたり、体育館でバドミントンをやったりして楽しかった。生徒に作ってあげた近代詩のプリントの余りをもらったりもした。今でも愛誦しているいろいろな詩に出会ったのはそのプリントだった。

母に対しても、寛容で、やりたいことはやらせていた。手作りの教室に通ったり、道祖神や仏像を見るために一人旅に出かけたり、当時は気づかなかったが、同じ主婦として、私にはできないようなことを、母はしていたなぁと、今、思う。

妹に対しても、同じようにしていた。

母も、妹も、私も、みんな父の懐で、ずっと守ってもらっていたのだ。

私が赤ん坊の頃、父が丹前の中に私を入れて抱いている写真がある。ずっとあんなふうにしてもらっていたんだなぁ。

あなたの子供でよかったです。

教師として

大学時代、何より打ち込んだ児童文化研究会の影響もあってか、父は教員を目指した。教育実習は世田谷区立八幡中学校。教科の国語もさることながら、自習や学活の時間に児研の経験を生かして、生徒に人気を博したらしい。生来の、子供好きであった。当時、八幡中学校の校長先生は、詩人八木重吉の孫という方で、吉井勇の甥という父にシンパシーを感じて下さったのか、実習が終わる時には、採用を推薦の上、八幡中学校に引っ張っぱると言って下さったそうだ。こうして、八幡中学校で父の教員人生が始まった。国語の素養には自信のなかった父だが、学校や生徒さんたちに恵まれて、本当に慕われて、急に3年生の担任を任されたりして、充実した数年を過ごしたようだ。世田谷という土地柄もあったかもしれない。

次の豊島区立池袋中学校は、打って変わって、繁華街に近く、一学年16クラスというマンモス校で、生徒も先生も今では考えられないようなバンカラの校風に、相当面食らい、鍛えられたようだ。いろいろな生徒さんやその家庭とも遭遇し、若さに任せてぶつかって、印象深い出来事も多かった頃。家出した子を探しに行ったり、父子家庭の子から、夜、お父さんが死んじゃった、と連絡を受けて駆けつけたり、今で言うモンスターペアレントから夜昼構わず電話がかかってきて、黒電話を布団にくるんで、家族みんな夜中まで寝られなかったり、教室に迷い込んできたカナリアを、クラスで飼ったり。そのカナリアは、卒業後は我が家に迎えて、ピーコと名付け、私が7年間お世話係をした。

勧められて教育相談を勉強し始めたのもこの頃だった。その教育相談の経験を買われて異動したのは、文京区立茗台中学校。更に第九中学校へ。そして、定年を迎え、文林中学校で嘱託をやって、退職した。教科の他に、部活ではバドミントン、演劇などを担当し、自分も参加して楽しんでいた。職員室の他に教科準備室があって、生徒たちからイタチ小屋と呼ばれて、溜まり場になっていたり、本当に、教師という仕事は父の天職だったと思う。

その頃はワープロなどなく、夜、いつもガリ版カリカリと試験問題やプリントを作っている音がしていた。土日は毎週のように部活の練習や試合で出かけ、母がよく呆れていたものだ。

退職後は、よく同窓会やクラス会に呼んでいただいた。80代後半まで、初任校の卒業生の70代後半の方が車で家まで迎えに来て下さったりして、皆さんに会って、昔の話をするのをとても楽しみにしていた。父も病気になり、新型コロナが流行り出したりして、その楽しみを近年は諦めなくてはならなくなったのが残念ではあった。

年末に父が亡くなって、正月には例年のようにたくさんの年賀状をいただいた。折り返し欠礼のハガキを出したら、更にお悔やみのお手紙や、香典を送って下さった方も多く、卒業から数十年を経て、慕ってくださることがありがたく、心に沁みて、さっそく、仏前に供えて、父に報告した。

 

父の生い立ち

私の父、修(おさむ)は、四国の宇和島伊達家の末裔で、昭和5年8月14日に京都府中京区で生まれた。本籍は東京都目黒区中根町で、伊達德眞(のりまさ)、百合(ゆり)を両親に、兄、誠(まこと)、保(まもる)、妹、英子(ふさこ)の6人家族。祖父はカネボウの前身である鐘ヶ淵紡績の研究職で、人工繊維(スフ)の開発をしていたという。転勤が多く、軍属でもあった祖父は、口数の少ない、厳しい人で、乗馬や水泳は堪能だったが、父は幼い頃、泳げないのにいきなり背の立たない水の中に入れられて、自力で泳げ、というやりかたで泳ぎ方を覚えさせられたそうだ。父は、腕白でじっとしていられない、小猿のような子だったので、「ちーちゃん」と呼ばれていた。5歳くらいの写真が残っていて、ちゃんとした服を着せられて、撮影する間、動かないように背中には物差しをあてがわれている。小学校は、神戸の元山小学校の他、数校に通い、当時は差別されていた朝鮮人部落の子供たちとも友達になって、一緒にいたずらをしたり、喧嘩をしたり、腕白な子供時代を過ごした。祖母は、歌人吉井勇を兄に持つ伯爵家出身の人だったが、父の友人をを差別することはなかったという。祖父は侯爵家の次男で、長男(父の伯父)は德長(のりなが)といったが、幼い頃、女中が抱いていて取り落とし、頭を打ったために知的障害があると聞かされていて、同じ家の離れに住んでいた。その「ながさま」は、穏やかな、工作や動物を飼うのが好きな人で、父はよく遊んでもらったという。昔の華族は、そういうこともよくあったのではないかと思うが、戸籍上は、祖父の父が亡くなった時、長男が家督を継ぎ、すぐに隠居の届けをだし、次男の祖父が相続している。その後、その人がどうなったか、父からは聞かなかったが、幼い頃のそんな経験が父の人となりに影響があったのではないかと思う。父の思い出話の中にいちばんよく出てくる猫は、その頃飼っていたぷーすけという猫で、生まれつき足か何かに障害があって、もらい手がなく、犬と一緒に飼っていた。人懐っこく、犬とも仲が良くて父は可愛がっていたが、犬がジステンパーになり、それが移って死んでしまった。何十年たっても、その時の悲しみは癒えていないようだった。

中学校は、当時できたばかりの六甲中学で、山の中腹にあり、厳しい校長先生のもと、通学が大変だったそうだ。戦争中は、家の事情で、親戚の家に預けられたことがあり、その時、自分だけご飯を秤で計って少ししか貰えず、トマトやカボチャ、さつまいも冬瓜などばかり食べていたので、嫌いになってしまったとか。高校は獨協高校へ進み、終生の友だちもできた。この頃は、渋谷区中根町の叔父さんの家に住み、独身の叔父さんのご飯を作ったり、ギターを教えてもらったりしていた。そうした生活で、終戦後の混乱もあり、学校の勉強にはあまり身を入れてなかったようだが、唯一、國學院大に入ることができた。大学では、児童文化研究会というサークルに入って、人形劇や紙芝居などを子どもに見せる活動に熱中、4年生の時には部長になり、入ってきた新入部員の1人が母だった。この頃のことは、父の思い出話のハイライトだと言える。

昭和ヒトケタ生まれで、戦争の影響の中で育ち、戦後は祖父母が詐欺にあったり、病気になったり、お金の苦労もあったようだけれど、朗らかでやんちゃな青年になっていった。

一方、母は、東京都の役人で競輪関係の仕事をしていた祖父のもとで4人兄弟の三女として生まれたが、兄と姉1人は幼い時に亡くなり、そのためか、大切に過保護に育てられた。祖父は、運転手付きの黒い車を使っていて、裕福だったけれど、先祖はキリシタンバテレン辻又兵衛、と母は言っていたが、要は山梨県の元平民だったので、父の両親には結婚を許してもらえなかった。結婚式は明治神宮で挙げたが、父方の祖父母は出席せず、代わりに当時の伊達家の当主の宗明叔父さん夫妻が出席してくれたという。私が生まれて、何となく和解したらしいけれど、後年もずっと蟠りはあったようだ。と言っても、父の兄弟で見合い結婚だったのは、叔母1人だけだったし、兄弟の仲はよかった。母の実家には何かと援助してもらったり、父はよく祖父の囲碁の相手をしたりして、良き婿ではあったと思う。

 

 

好きなもの

父は12月27日、母は2月24日、妹は8月22日が祥月命日なので、月命日は月の後半に続けてやってくる。それぞれの好物や得意料理を食卓にのせることにしている。父なら鰻、ステーキ、お多福豆など。おつまみなら、数の子カラスミが好きで、ふきのとうの味噌和えは、刻んだ生のふきのとうを、味噌と多めのハチミツで和えたもので、父が自ら作り方を教えてくれた。肉は何でも好きで、味付けもこってりと濃いめが好き。朝ごはんにはいちごのジャムパンやアップルデニッシュやあんぱんを、バナナとりんごとにんじんのフレッシュジュースと、カップヨーグルトが定番だった。母は、淡白で薄味の、おでんや豆腐、果物を好んだ。でもなぜか、豚のスペアリブの煮たのは好きで、妹がよく煮てあげていた。妹は、歯応えのあるものや熱々のものが好きで、貝類、特にトリ貝とかアワビとかのお刺身、豚のナンコツとか。キャラブキとウィンナーも好きだった。得意だったのはナポリタン、ミネストローネ、巻き寿司、いろんな煮物とか、お弁当、のり弁とか、松花堂とか、入れ物からメインはもちろん、付け合せまで手作りでお弁当屋さん顔負けに作ってくれたっけ。父と2人の昼ご飯に作ったりして、料理には極力手をかけない私には考えられない労力だと思うのに、楽しんでやっていた。私には作れないものばかりで、ナポリタンとミネストローネは作ってみるけれど、妹の味には近づけない。

おやつだったら、父はチョコレートの『メルティキッス』や『神戸ショコラ』、ビスケットのアソートとか、アイスクリーム、草餅とか大福なんかもよく買って食べた。母は、ドライマンゴーとか干し杏、ドライフルーツたっぷりのフルーツケーキなどが好きだった。妹は辛党で、間食もあまりしなかったが、おつまみなら、ホタテ貝ひもとか、QBBチーズ鉄分入りをいつも食べていた。という訳で、実家の祭壇にはいつもこういったお菓子やおつまみが並んでいる。

スーパーやお店で、いつも、父や母や妹の好きなものを探すのが習慣になってしまい、見つけると買いたくなる。もっともっと買ってあげたかった。今ごろ、みんな何でも好きなだけ食べてるのかな、と思うけれど。

思うこと

父がこの世を去って、もうすぐ半年。いろいろな手続きや、支払いで慌しかったのが、一段落したところで、ふと気がついた。父も母も妹もいなくなって、私の実家の家族は私ひとりになってしまったのだ。妹が住むはずだった家、残された猫、隣近所の付き合い、一体どうしたらいいのか、相談する相手はもういないのだ。

とりあえず、家の中を片付けていると、古い写真や、見覚えのあるものが出てきて、ひとつひとつの思い出がよみがえってくる。そんな時、たくさんの記憶を抱えて、しばし茫然としてしまう。楽しかったことも、不確かでもう一度確認したいことも、誰とも分かち合えないことを痛感する。

もうみんなと会えないなんて、そんなのない。そんなわけない。私は、やはり、まだ受け入れられないのだ。

妹が倒れてから、父と2人で暮らした一年あまりの間、父とよく話したのは、父の子供の頃のことや、若い頃の思い出だった。高齢者は、古いことほどよく覚えているというけれど、繰り返し、まるで子供に戻ったように昔の話をしてくれた。私の子供の頃のことは、そうだったっけなぁ、というくらいの反応だったけれど、私も負けずに懐かしがって、古い話をたくさんした。今考えると、何とかけがえのない、大切な時間だったことか。

母や妹とも、もっともっと話したかった。

この半年、父の92年、母の82年、妹の61年を何度も思った。私の人生と分かち難い記憶ばかりだ。もし、私がこの世からいなくなったら、誰が思い出すのだ。もちろん、私と妹の子供たちはいるけれど。

毎日の暮らしの中で、ちょっとしたことで何かを思い出すと、立ち止まってしまうことが続く。そんな時、声に出して、父に、母に、妹に話しかけてみると、何だか一緒に喋っているような気がする。大抵、些細なことばかりで、だからこそ他の人には意味がないことなのだけど、私にとっては心の拠りどころになっている。

そんな独り言のような、心の中の会話を、書き留めたいと思う。