富士と折り紙

父の思い出

和光の家

実家は埼玉県和光市にある。私が結婚して、家を出た後、父と母は、それまで住んでいた板橋区内の家から、36年前に引っ越してきた。当時、東武東上線和光市の駅前は広々とした空き地に、イトーヨーカドーばかりが目立つ、鄙びた所だった。それが今では、地下鉄が乗り入れ、私鉄とも連絡して、横浜や渋谷まで一本で行ける、便利な始発駅になり、駅のまわりは賑やかになった。高速道路も近く、外環まで10分もかからない。ホンダに理化学研究所司法研修所自衛隊駐屯地もあり、市の人口は増え続け、若い人の多い街である。

実家は大規模なマンションの7階で、ベランダからは天気が良ければ富士山がよく見える。それがこの家を選んだ一つの理由でもあり、父も母も妹も、その景色が気に入っていた。妹の携帯には、ベランダから撮った富士山の写真が何枚も残っていたし、父と私も、日々、「今日はよく見えるよ」などと話題にしていた。富士山が見えると、なぜかいいことがありそうな気がしたりした。

マンションの敷地内には、ケヤキモミジバフウクスノキイチョウなど、公園にあるような大きな樹木がたくさん植えられ、人工の流れもあって、夏は水遊びができる。テニスコートや集会棟、スーパーと図書館もある。私は、実家とは言っても、住んだことはなく、長男、次男の出産の時に帰って来たくらいだったけれど、あらためて、この家の住みやすさを感じることが多かった。

思いがけず始まった父との2人暮らしも、一年を過ぎ、その間に妹が亡くなり、父は92歳になった。考えてみると、今まで、父と2人きりでこんなに長く過ごしたことはなかった。父の病気は、少しずつ進行して、在宅酸素の濃度は上がっていった。お風呂もトイレも介助なしでできたけれど、苦しくなることが増え、妹のことやコロナ禍も重なって、鬱状態を訴えるようにもなった。そんな日々でも、それまでの習慣や、好きなことをして、他愛ない冗談を言い合ったりして、自宅でゆったりと過ごすことができたのは、本当にありがたかった。ケアマネジャーや、訪問診療や、酸素の会社や、お向かいのお宅の方にも、お世話になった。でも、何より、父が頑張ったと思う。

最初は留守番を不安がっていたけれど、私は毎日、夕方は買い物を兼ねて散歩に出た。1人になってただ歩く時間がほしかったのだ。父は、夕暮れ時は心細くなったりすることが多いのに、私が散歩から戻ると、明るい声で「おかえり〜」と声をかけてくれた。妹や私のことや、親戚や、周りの人をいつも気遣ってくれたし、耳も歯も、滑舌も私よりよっぽど良くて、足腰もしっかりしていた。娘の私が言うのもおかしいけれど、父はもしかしたらとても徳の高い魂を持っている人だったのではないかしら、と思ったりする。

そんな父との生活の中の、ちょっとしたことを、繰り返し思い出す。

よく一緒にテレビを見た。父が好きだったのは、『坂上動物王国』、日曜日の昼間の『お宝鑑定団』、相葉くんの『みんなの動物園』、時間的によく観ていたのは、高田純次の『じゅん散歩』、火野正平の『こころ旅』など。でも、高田純次はお気に召さず、さかなくんも好きじゃないと言う。NHKの『いいいじゅー』は、見るたびにロゴが「いいじいじ」に見えると言いながら見た。あとはとにかくスポーツ中継、特に陸上競技、バドミントン、卓球、体操、水泳など、自分も経験のあるものは熱心に見た。冬のオリンピックも、なんだかんだ言いながらほとんど見た。スポーツ好きの人らしく、父は思いの外、負けず嫌いなのだった。

父は若い頃はギターを弾いたり、ハーモニカを吹いたり、歌もよく歌っていたらしい。私が子供の頃、日曜日のミッチ・ミラー楽団の『ミッチと歌おう』という番組をよく見たし、映画もミュージカルが好きで、『アニーよ、銃をとれ』とか、『チキチキバンバン』、『マイフェアレディ』など、一緒に見た記憶がある。歌手は、笠置シヅ子がお気に入りだったので、今度NHKで始まるドラマ『ブギウギ』など、もし見られたら、楽しんで見ただろうと思う。

和光のテレビは、65型という大きさで、初めて見た時はあまり大きいので驚いたけれど、いつの間にか慣れた。2年前の年末、急にテレビが壊れて、街の電気屋さんに問い合わせたら、これしかなかったとかで、22万円もしたという。父は少し前に緑内障と診断されて、視野が少し欠けるようになり、テレビが大きくてよかったと言っていた。

和光の家の重要な住人?、黒猫のまるくんを忘れてはならない。妹が溺愛していたので、父は、「まるくんは、ママの3男坊だからね。」といつも言って聞かせていた。そう言う父も、まるくんが可愛くてならず、おしっこやうんちをしたと言っては褒め、知らんふりされてもじゃらしたり、まるくんがダイエット中なのに、こっそりキャットフードのおやつをあげたりしていた。私は見て見ぬふりをしていたけれど、父がいなくなった後、片付けていると、あちこちから隠してあったまるくんのおやつが出てきて、思わず「じいじ〜」と言ってしまった。