富士と折り紙

父の思い出

教師として

大学時代、何より打ち込んだ児童文化研究会の影響もあってか、父は教員を目指した。教育実習は世田谷区立八幡中学校。教科の国語もさることながら、自習や学活の時間に児研の経験を生かして、生徒に人気を博したらしい。生来の、子供好きであった。当時、八幡中学校の校長先生は、詩人八木重吉の孫という方で、吉井勇の甥という父にシンパシーを感じて下さったのか、実習が終わる時には、採用を推薦の上、八幡中学校に引っ張っぱると言って下さったそうだ。こうして、八幡中学校で父の教員人生が始まった。国語の素養には自信のなかった父だが、学校や生徒さんたちに恵まれて、本当に慕われて、急に3年生の担任を任されたりして、充実した数年を過ごしたようだ。世田谷という土地柄もあったかもしれない。

次の豊島区立池袋中学校は、打って変わって、繁華街に近く、一学年16クラスというマンモス校で、生徒も先生も今では考えられないようなバンカラの校風に、相当面食らい、鍛えられたようだ。いろいろな生徒さんやその家庭とも遭遇し、若さに任せてぶつかって、印象深い出来事も多かった頃。家出した子を探しに行ったり、父子家庭の子から、夜、お父さんが死んじゃった、と連絡を受けて駆けつけたり、今で言うモンスターペアレントから夜昼構わず電話がかかってきて、黒電話を布団にくるんで、家族みんな夜中まで寝られなかったり、教室に迷い込んできたカナリアを、クラスで飼ったり。そのカナリアは、卒業後は我が家に迎えて、ピーコと名付け、私が7年間お世話係をした。

勧められて教育相談を勉強し始めたのもこの頃だった。その教育相談の経験を買われて異動したのは、文京区立茗台中学校。更に第九中学校へ。そして、定年を迎え、文林中学校で嘱託をやって、退職した。教科の他に、部活ではバドミントン、演劇などを担当し、自分も参加して楽しんでいた。職員室の他に教科準備室があって、生徒たちからイタチ小屋と呼ばれて、溜まり場になっていたり、本当に、教師という仕事は父の天職だったと思う。

その頃はワープロなどなく、夜、いつもガリ版カリカリと試験問題やプリントを作っている音がしていた。土日は毎週のように部活の練習や試合で出かけ、母がよく呆れていたものだ。

退職後は、よく同窓会やクラス会に呼んでいただいた。80代後半まで、初任校の卒業生の70代後半の方が車で家まで迎えに来て下さったりして、皆さんに会って、昔の話をするのをとても楽しみにしていた。父も病気になり、新型コロナが流行り出したりして、その楽しみを近年は諦めなくてはならなくなったのが残念ではあった。

年末に父が亡くなって、正月には例年のようにたくさんの年賀状をいただいた。折り返し欠礼のハガキを出したら、更にお悔やみのお手紙や、香典を送って下さった方も多く、卒業から数十年を経て、慕ってくださることがありがたく、心に沁みて、さっそく、仏前に供えて、父に報告した。