富士と折り紙

父の思い出

家族として

母は結婚するまで家事をしたことがなく、その上あまり丈夫でなかったからか、子煩悩でマメな父は、今で言うイクメンで、家事、育児は厭わずやっていた。特に料理は、家族と離れて叔父のところに居候していた経験があったからか、マッチで火をつけるところから、ご飯の炊き方、ジャガイモの剥き方まで、父が母に教えたという。父の得意料理がいくつかあって、気取った手の込んだものではないけれど、鶏の手羽肉のソテー、炒めご飯、焼きそばなど、焼き物が上手で、よく作ってくれた。また、母はおにぎりが苦手で、俵形になってしまうので、私が三角がいいと言ったら、遠足や運動会のおにぎりは、いつも父が握ってくれた。そのためか、大人になって、私のおにぎりが普通より大きいとママ友に指摘されたことがある。私たちが家を出て、母とふたりになって、母が膠原病で闘病生活をするようになると、老々介護となり、料理は父が全てやっていた。母は好き嫌いが多かったので、苦労していたようだけれど…

旅行にもよく連れて行ってくれた。親戚のいる山梨や千葉の内房を拠点に、八ヶ岳霧ヶ峰清里、蓼科、館山などへは区立の保養所や公営の宿泊施設を使って、また本栖湖とか、富士山周辺、西沢渓谷、須坂温泉、白駒池、1972年のジャコビニ流星群の時には、10月9日に学校を休んで裏磐梯の浄土平の先の、林野庁の宿泊施設に泊まることにして星を見に行った。駅に着いたらもうバスがなかったので、タクシーで行こうとしたら、タクシーの運転手さんが一家心中と間違えたのか、何もなくて真っ暗だから行かない方がいいと諭され、宿があって予約も取ってあると説明してやっと行ってもらった。その夜、流星はひとつも見えなかったけど、翌日見た五色沼の紅葉の美しかったこと!そんなふうに、我が家の家族旅行は、いつも鈍行電車やバスと歩きの、質素な、でも一つ一つに思い出のある旅行だった。贅沢ではないけれど、両親が見せてくれたとびきりの景色は、今でも鮮やかに心に残っている。

小さい頃住んでいた早稲田の面影橋住宅は、池や原っぱがあり、大きな公園も隣接していて、新宿区にしては自然が豊かで、いろいろな虫がいた。父は子供の頃から生き物が好きだったので、私にも、虫のことを教えてくれた。アゲハチョウを卵から育てたり、アリジゴクを見つけたり、テントウムシの幼虫を飼ったり、カブトムシの幼虫を探しに行ったり、虫が好きになった私は、当時豊島園にあった昆虫館の会員になって、何度も連れて行ってもらった。母と妹は大の虫嫌いだったけれども。

手先が器用だった父は、大学時代に作っていた指人形の作り方も教えてくれた。ハガキで作った筒を芯にして、新聞紙を丸めて、その上に小さくちぎった半紙を貼って顔を作っていく。色を塗って、顔を描いて、布で簡単な服を着せたら出来上がり。名前はデコ坊だった。操るのも上手で、ひとたび父が指にはめると、まるで生きているようにおしゃべりして、ふざけたりする。とても楽しかった。人形やもの作りが好きな私の原点だと思う。

勉強もよく教えてくれた。小学3年生くらいの頃、算数が苦手だった私に、毎日、問題のプリントを作ってくれて、私が問題をやっておくと、夜の間に採点して、翌朝までに次の問題を作っておいてくれる、というのをずっと続けていた。お正月には書き初めの宿題、夏休みには理科の自由研究に根気強く付き合ってくれた。手伝ってくれるのではなく、そばで励まして、できたら誉めてくれた。夏休み中に、勤務していた学校のプールに入らせてくれたり、体育館でバドミントンをやったりして楽しかった。生徒に作ってあげた近代詩のプリントの余りをもらったりもした。今でも愛誦しているいろいろな詩に出会ったのはそのプリントだった。

母に対しても、寛容で、やりたいことはやらせていた。手作りの教室に通ったり、道祖神や仏像を見るために一人旅に出かけたり、当時は気づかなかったが、同じ主婦として、私にはできないようなことを、母はしていたなぁと、今、思う。

妹に対しても、同じようにしていた。

母も、妹も、私も、みんな父の懐で、ずっと守ってもらっていたのだ。

私が赤ん坊の頃、父が丹前の中に私を入れて抱いている写真がある。ずっとあんなふうにしてもらっていたんだなぁ。

あなたの子供でよかったです。